一生、思春期?外側と内側のはなし【外側編1】

作品一覧

インナーチャイルド改め<br>リトルFumi
インナーチャイルド改め
リトルFumi

あのさ、考え事してて気づいたらインナーワールドに入ってく時ってあるやん?あの時の後頭部から眼球の裏側にかけての感触の話やけどさぁ・・・

ありったけの<br>外面でお届け<br>Fumi
ありったけの
外面でお届け
Fumi

ちょっと。人前でそういうテーマ掘る時は段階を踏んでよ。ヤバイ奴らだと思われるでしょ。

リトルFumi
リトルFumi

外面えぐいやん。

ありったけの<br>外面でお届け<br>Fumi
ありったけの
外面でお届け
Fumi

今回ご紹介するのはこちらの作品です。

壁上網越ゆ 1303×970mm

●砂浜に立てる、謎のブロック塀。空中には、小さな窓。

この作品は、私が二十代後半頃に描いたものです。

砂浜に立てるコンクリートブロックの塀には、侵入者を阻む鉄条網がついています。
その鉄条網の間から、枯れ枝がにょきりを姿を現しています。塀の向こう側から伸びてきたようです。

砂浜には強い風が吹いて、簾は巻き上がり、枯葉が幾枚か舞っています。
塀の手前には砂が溜まり、そこには一株の植物が生えています。

画面の右上には簾のかかった窓があります。窓際には、女性がこちらに向かって佇んでいます。
女性の後ろには、お茶碗の置かれているのが見えます。女性は今、何をしているのでしょうか。

●砂浜でたそがれたモラトリアム時代

この作品を描いていた頃、私は地元の町で仕事をしながら制作活動を続けていました。海がすぐ傍にある町だったので、時々海沿いを散歩したり、砂浜や砂利浜でたそがれたりしたものです。

珍しいことではないかもしれませんが、私は幼少期から、いくつもの葛藤を抱えていました。その葛藤がより大きくなったのが、この頃です。

グレー味が強いのは、その頃の、まるで心にモヤのかかったような気持ちが表れているように思います。この絵の制作は、「何となく」キャンバスを真っ黒に塗るところから始まりました。

この「何となく」という感情はなかなか曲者で、人間の深層心理が自然に表れた形だと私は考えています。この絵を見ていると、あの頃のモヤモヤとした感情が思い出されます。人一倍敏感な私は、大人達の様々な価値観や、自分と他者との間にある意識的な距離感、ひいては私の中にある対極的な価値観が摩擦して起こる「矛盾した感情」に、なかなか適応できずにいました。

リトルFumi
リトルFumi

何なら今もそうやよね。

 ありったけの外面でお届けFumi
 ありったけの外面でお届けFumi

ゴホゴホッ!

 自分とは何か。他者とは何か。その境界線はどこにあるのか。自分の内側と外側とのギャップに戸惑い、物事の内側と外側とのギャップに傷つき、やがて苛立ち、ついには身体の芯から怒っていました。

「物事の外側と内側」あるいは「物事の境界線」なんていうのは、もはやありふれたテーマかもしれませんが・・・これらのことは、文学や芸術の分野に限らず、人間社会のあらゆる分野の根底にあるような気がします。私自身は、長かった思春期を終え、さらにその先の長いモラトリアム時代を経ても尚、精神は子供と大人の間にあり、絶妙に行き来しているような気がします。

リトルFumi
リトルFumi

何ならこじらせてるよね。

ありったけの外面でお届け<br>Fumi
ありったけの外面でお届け
Fumi

ゴホゴホッ!

●そんな私は、かつて新人賞を頂いた二科会の授賞式の場で、マイクを通して「私は一生、思春期だと思います。」などと公言した経験があります。

リトルFumi
リトルFumi

外面どこ行ったん?

Fumi
Fumi

記憶にございません。

リトルFumi
リトルFumi

ま、未完成の精神って芸術の根源やもんね。それでこそ絵描きやで。

Fumi
Fumi

お、おう。

●世界、こわい・・・

繊細さと、思春期と、モラトリアムをこじらせた私は、順調に世界が恐くなりました。

あの頃のFumi
あの頃のFumi

メソメソ・・・世界、コワイ。隙間で生きていたい。皆なんで上手にできるの。

リトルFumi
リトルFumi

下手でもええよ。でも籠ったり一人行動するの大好きなくせに、なんか人前に出て行こうとするのなんで?自分らしく生きればいいのに。

 人一倍、人前に出るのが嫌いな私なのですが、思春期に差し掛かった辺りから、なぜか色々な「すべき」観念にとらわれていて、一生懸命嫌いな事をやっていました。身体の芯から怒りながら、また恐ろしい、恐ろしいと怯えながら。

 その怒りや恐怖の実体が、自分の中にある「正義」だと気づいたのは、三十代を過ぎてからでした。心の矛盾や怒り、悲しみも恐怖も、全ては自分の中にある正義感から成るものであり、同時に、その正義感は、自分の気持ちとは無関係に築き上げられたものだという事にも気づいたのです。自分を守ってきたのも、苦しめてきたのも、自分の中にある「正義」だった。複雑で矛盾した世界を作り出すのは、自分の中にある「正義」だった。しかし、その「正義」は、私がそれまで生きてきたちっぽけな社会によって作られたものなのである。これはどういうことか。「自己」とはなんだ。そんなものは存在しないのではないか。しかもその「正義」は、この塀の中の、ほんのちっぽけな、砂浜の上でしか通用しないかもしれないのだ。こんな風に、塀を立て鉄条網を引きでもしなければ、広い世界に自分の「正義」は通用しない。そこには「自己」もない。自分の存在を証明するための「正義」と「悪」の境界線は、なんと不安定なものなのか。

 この絵を描いた当初はここまで言語化はできておらず、ただ無我夢中でキャンバスに向き合っていました。

リトルFumi
リトルFumi

ゆっくりだけど成長してるの。絵を描きながらね。

壁上網越ゆ 1303×970mm

 このコンクリート塀は、二つの世界の間に立っています。その二つの世界とは、社会つまり他者のいる世界と、自己つまり自分の心の中の世界です。海は自己、そして壁を隔てた反対側は社会を表しています。

 海は、自分の本能的な、言わば真の姿を孕んでいるのですが、その全貌は、少なくとも水中を潜っていかない限り知ることはできないでしょう。海面に現れているのは、海それ自体が創り出した姿ではない。中にいる生き物や、風や、月の満ち欠けや、つまり他者が創ったもの。すなわち社会によって刻一刻と創られる「新たな正義」の姿です。正義の反対は悪か?いや、正義の反対は、また別の正義かもしれない。そもそも自己を守るように立っているこのコンクリート塀も、他者の上にあるのかもしれない。考えれば考えるほど、境界線なんて身勝手でいい加減なものです。

 こちらから見える窓は、私の心の中の更に奥の部屋に続いています。この部屋の中には、自分の「これまでの正義」を表しています。内側から様子を伺うように立っているのは、私の迷える心を表しています。実体を失い、彷徨っています。しかし、お茶碗には何も入っておらず空っぽで、その身体に社会的実体のない事を意味しています。

あなたは、考え事をしすぎて、周りが見えないくらいぼーっとした経験がありますか?私は、子供の頃から現在も、日常的にそういう事があります。起きているのに寝ているようで、時間は一瞬に過ぎて、不思議な感覚です。その世界を見える形にしたのがこの絵なのです。

リトルFumi
リトルFumi

気づいたらあっち行っちゃってるんよね。

実は、この作品は二枚一組になっています。感の良い方は、もうお分かりでしょう。そうです、【外側と内側】を描くために、二枚一組にしたのです。

というわけで、今回ご紹介したのは【外側】でした。
次回は【内側】の絵をご紹介したいと思います。

前回の作品解説記事はこちら ▶︎ 育児で大パニック!涙目の絵描きが描いた絵

作品はこちらからご購入いただけます。
https://www.creema.jp/c/fumi-onaka

新作情報は公式ラインにて随時ご案内します。
https://lin.ee/3dEaTvw

コメント